日本橋から千住宿                                                                                                        ホームへ

2016年1月3日10時40分日本橋をスタートしました。旧日光街道を下りまず浅草へお昼に雷門に到着しましたが、新年の参拝者の多いこと多いこと浅草寺での参拝はあきらめて素盞雄神社に初もうでしました。

北千住の駅に14時20分に到着歩数計によると15321歩時間は休憩を入れて3時間40分距離はおおよそ10kmでした。

日本の道路元標のレプリカです。本物は橋の中央にあります。

道路元標のモニュメントです。

この時は箱根マラソン復路のためにお巡りさんが沢山いて道路中央には行けませんでした。写真の下の方に見えるのがオリジナルの元標です。

ホテルギンモンド東京の横の駐車場に立つ道標です。看板の陰に隠れていて一度通り過ごしてしまいました。裏に昭和58年大伝馬町会が建立したことが記載されています。横には「徳川家康公江戸開府に際し御傳馬役支配であった馬込勘解由が名主としてこの地に住し以後大傳馬町と称された」と彫られている。

郡代屋敷跡  (中央区郡代屋敷跡にある表示板より)

所在地 中央区日本橋馬喰町二町目地域

江戸時代に、主として関東の幕府直轄の、年貢の徴収・治水・領民紛争の処理などを管轄した関東郡代の役宅があった場所です

関東郡代は、天昇十八年(1590)徳川家康から代官頭に任命された伊奈忠次の二男忠治が、寛永十九年(1642)に関東諸代官の統括などを命じられたことにより事実上始まるとされています。元禄年間(16881704)には関東郡代という名称が正式に成立し、代々伊奈氏が世襲しました。

その役宅は、初め江戸城の常盤橋門内にありましたが、明暦の大火(1657)による喪失後、この地に移り、馬喰町郡代屋敷と称されました。

寛政四年(1792)に伊奈忠尊が罪を得て失脚した後は、勘定奉行が関東郡代を兼ねることとなり、この地に居住しました。文化三年(1806)に関東郡代制が廃止され、さらに屋敷が焼失した後には、代官の拝領地となって、馬喰町御用屋敷と改称されましたが、江戸の人々はこの地を永く郡代屋敷と呼んでいました。

平成二十年三月

 

神田川横の交番の近くにある「郡代屋敷跡」の看板。

神田川の上流を橋の上から望む。

神田川の橋を渡りった左側にある「浅草見付跡」の碑。

ついつられて鯛焼きを購入して歩きながら食べてしまいました。

小豆の餡が160円で、皮が薄くてパリッとしていて大変おいしかった。

1月3日の雷門前は大変混雑して雷門通りは歩行者専用になっていました。

雷門の前から見たスカイツリー。

浅草寺は参詣客で大変な混雑しており、今回参詣はパスしました。

延命寺のお題目と石の地蔵。俗に首切り地蔵と言われているらしい。小塚原刑場の刑死者を弔うための地蔵だそうだ。

回向院は寛文7年(1667)本所回向院の住職弟誉義観(ていよぎかん)が、行路病死者や刑死者の供養のために開いた寺で、当時は常行堂と称していた。安政の大獄により刑死した橋本佐内・吉田松陰・頼三樹三郎(らいみきさぶろう)ら多くの志士たちが葬られている。明和8年(1771)蘭学者杉田玄白・中川淳庵・前野良沢らが、小塚原で刑死者の解剖に立ち合った。後に「解体新書」を翻訳し、日本医学史上に大きな功績を残したことを記念して、大正11年に観臓記念碑が建立された。

荒川区教育委員会 説明文による

千住回向院の説明文。詳しくは写真を拡大してご覧ください。

ここ「素盞雄神社」で初もうでをしました。

素盞雄神社で出会った獅子舞。

素盞雄神社の説明。詳しくは写真を拡大してご覧ください。

千住大橋の沿革

文禄3年(1594年)徳川家康が江戸に入った後、墨田川に初めて架けた橋。

架橋工事は伊那備前守忠次が奉行を務めたが、工事は困難を極めた。忠次が熊野神社(南千住六丁目)に祈願したところ、工事は成就し、以来橋の造営の度に残材で社殿の修理を行うことが慣例となったと伝えられる。また、この架橋を機に、江戸中期までに行われていた小塚原天王社(このページのすぐ上、現素盞雄神社)天王際の神事「千住大橋綱引」が始まったという。当初は今より、200メートル程上流に掛けられた。単に「大橋」と呼ばれたが、下流にも架橋されると「千住大橋」と称されるようになったと伝えられている。

千住大橋は、日光道中初宿、千住宿の南(荒川区)と北(足立区)とを結び、また、江戸の出入口として位置付けられ、多くの旅人が行き交った。旅を愛した松尾芭蕉もここから奥の細道へと旅立ち、真山青果の戯曲「将軍江戸を去る」では、最後の将軍徳川慶喜の水戸への旅立ちの舞台として表現されている。

現在の鋼橋は昭和2年(1927年)日本を代表する橋梁技術者増田淳の設計により架け替えられた。ブレースドリブ・タイドアーチ橋の現存する最古の例である。「大橋」のプレートは、400年にわたる千住大橋の歴史を伝えている。

(橋のたもとに建てられている荒川区教育委員会の表示より)

隅田川にかかる千住大橋。

千住大橋の説明文。

千住大橋の横にある石碑

千住大橋を渡った左にある公園の中の石碑。

上の写真の石碑の後ろに掘られている説明。

橋を渡り右の旧道の入口にある千住宿のコーナー。松尾芭蕉が奥の細道に旅立った場所。上の説明にもあるがこの松尾芭蕉の像は平成16年芭蕉生誕360年を記念してできたものらしい。

昭和5年千住市場の問屋の配置図。

千住宿のやっちゃ場の屋号が木の板でたくさん立てられている。

源長治の山門。

千住掃部宿(かもんじゅく)の説明文。

千住高札場跡と一里塚跡の石碑

千住宿問屋場・貫目改所跡の説明文。

千住ほんちょう商店街。しばらく進んで右に折れると北千住駅。